富田さんの思い出の「出来事」
■伊勢湾台風
昭和34年9月の伊勢湾台風のすざましさと自然の恐ろしさは強烈な思い出です。名古屋港の材木の散乱による大災害。私の自宅でも夜台風の雨と風におののき、思わず壁を強く押さえていました。津高の木々が倒れ大変でしたね。
昭和34年、僕は3歳だったなぁ。丁度弟が津新町の紀平病院で生まれる夜でね。台風の夜は家で親父と二人きり。親父の横で戸袋を押さえてたのを微かに覚えてる。あと、その朝、玄関で履物がプカプカ浮いている情景も何故かしら覚えてるな。あなたは?
私は?・・・・分かんな~い、もしかしたら生まれて無かったかも(笑)
富田さんの思い出では「津高の木々が倒れた」とのことだね。
昔は樹木がもっともっと多かったのよね。富田さんの頃の津高の写真を見ると、周囲はぎっしり樹木で囲まれている感じ。
ところで、こうやって学校の歴史を振り返ってあらためて思うんだけど、正門前の「蘇鉄」だけは変わらないよね。
戦災や戦後の火災で残念ながら校舎は二度焼失しているのにね。そして、伊勢湾台風でも他の樹木は倒れてるというのに、正門前のあの「蘇鉄」だけはずーっと健気に大らかに生き永らえてる。そのことには今さらながら驚くというか、感動するよね。
そう、羽を広げた不死鳥のよう。津高のシンボルだよね。
理科の長谷川寛先生が津高の樹木について「沖」に寄稿されてて、この蘇鉄についても詳しく書かれてる。昭和10年に津中が今の場所に移転した時に植えられたものなんだね。
すると80有余年てことかぁ。戦災や戦後の火災も乗り越えて。でも、蘇鉄て、数百年、千年とかって生きるんでしょ?
人は入れ替わっていくけど、この蘇鉄だけはこれからもずーっと津高や津高生を見守り続けて欲しいね。大切にしないと。
そうだね。
あと、新町通りから正門に向けてのエントランスとかも、昔は立派な並木道だったそうね。
確かにこの航空写真を見ると、正門から津新町通りに向けたエントランスの両脇には割と高木の並木があるね。ヒマラヤ杉かなぁ?
実はね、140周年で皆さんから有難く頂いた募金を活かして、正門前の並木の復活を目指して植樹しよう、という企画なのよ。
新町通りから学校に入っていくエントランス・・・・その両側に背の高い並木が正門に向かってのびる・・・・そして、遠近法のその交点には津高の不死鳥「蘇鉄」が神々しく光輝く・・・・て、いいねぇ~。
出た、妄想癖(笑)。でも、いいでしょ?
今の言葉で言うと「ばえる(映える)」だな、きっと。
私たち生きてるうちは背も低いだろうし、「ばえる」まではいかないかも。
それでいいのだ!
バカボンのパパかい(笑)。でも、そうよね、今から「ばえる」ための種をまいとかないとね。
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