石橋佳代子先生
在籍期間:1984~2004年
担当科目:国語
1 先生にとって津高とは
二つの職場を経験して、三つ目の職場が津高校でした。それぞれの学校には校風というか、職場の雰囲気があり、どこも私にとっては新鮮で刺激のある職場で、学ぶことが多かったです。津高校に赴任した当初は、高校の恩師も数名いらっしゃいました。どの先生も暖かく見守ってくださり、職場になじむことができたことを感謝しています。生徒は優秀で、図書館では図書委員が勉強の質問に答えている風景や『大鏡』や『老子』なども読もうとしている生徒もいました。自ら学ぶ「自主自律」の校風を尊重し、「良識ある生徒」であることを先輩諸先生からはよく聞かされました。
2 津高での思い出
過去はすべて忘却の彼方に消えさって、過去を振り返ることはあまりしないのですが、久しぶりに昔のアルバムや文集などを繙き懐かしいんでしまいました。
その中で、「漕艇部100年」記事がありました。ボート部といった方が今の人にはなじみがあるかもしれません。漕艇部は津高校の最も伝統あるクラブで、1学期の考査後クラスマッチでは職員も参加で、レガッタ大会があり私も参加しました。その最初の顧問だった長谷川素逝先生は津中に在籍し京都帝大を卒業後津中で教鞭をとられた方で、日中戦争に徴兵され、その後、体を壊して戻られ三重県内で養生なさりながら俳句活動をなさって、昭和22年三重病院で肺結核のために亡くなられた方です。
素逝展は図書館行事としてその年の文化祭に実施しました。三重県内に散在している素逝の句碑の拓本を取りに行ったり、資料収集は大変な仕事でしたが、県内に残る資料のほとんどを集めることができ、多くの方々の来場を仰ぎました。そして、素逝の愛弟子でもあり研究家のうさみとしをさん、俳人の八田木枯さんなどをお招きして、俳句会も実施しました。「生徒らは軽く幅跳び飛んで秋」は池田民也先生の作品で、特選の一席に選ばれました。
図書館に所属していた頃はいろいろな企画をしました。文化祭で思い出すのは「戦後50周年」というので、「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた甘粕大尉は、津中同窓生ということで、取り上げました。甘粕大尉は実は私の記憶では残忍な人という認識でしたが、いろいろ調べていくうちに誤解もあったようで、その思いも込めて展示企画をやりました。そのほか「三重の祭り」などなど展示を企画しましたが、津高のOBの方々に資料など提供をお願いに行きますと、皆さんとても好意的で、惜しみなく協力をしてくださいました。
絵画展、生徒の作品展、先生の趣味の作品なども、亡くなられた駒田先生や鈴木茂先生等のご協力をいただき展示しました。
鈴木先生から「教育は文化的でなければいけない」とよく話してくださいました。その言葉を真に理解することはできなかったのですが、津高校の職場に赴任して少しずつ継続して積み重ねていくことで、なんとなくその意味が理解できるようになったと思いますが、21世紀という非常に慌ただしい時代の波の中で、その言葉は意味を失い、津高校の姿も変容していったように思います。
このコロナの時代を経て、時代はまた大きく変化を求めています。人間の叡智がどのような人類の幸福な社会を築いていくかは私にはとても想像できません。が、その一端を担うであろう卒業生が今もどこかで活躍しているという期待と希望をもって、そんな生徒たちとほんのわずかな期間でも接触できたことを幸運に思っています。
3 近況
退職後3年間、中国で日本語日本文学の教鞭を取りました。20年ほど前の中国はまだまだ自家用車を持っている家庭、携帯を使っている学生は少なかったですが、私が帰国するころには、道路は渋滞、携帯はあたりまえ。皆持っていましたね。日本の明治時代の文明開化より、その進歩は早かったのではないかと思いますね。
河南師範大学で2年、上海外国語大学で1年、あと2年はと引き止められましたが、上海は万博の前年で、街は土埃や排気ガスがひどく、私のような田舎育ちには息苦しく、早々に引き上げてきました。その後、三重大学の出版会の手伝いをし、今は晴耕雨読の日々です。庭の花々や小さな菜園の成長を楽しみ、親しい人と俳句や連句、古典を読んだり、平安時代の女房たちと文学サロンを楽しんでいます。というわけで、コロナ禍もそれほど苦にならず、悠々自適な生活を満喫しています。