紙谷敏博先生
在籍期間:1967~1977年
担当科目:保健体育
担当部活:硬式野球部

1 先生にとって津高とは

満30歳(教職経験)8年目からの10年間。教科指導から人格形成まで全ての部分で学習させて頂き、教師としての基礎を確立させてもらった時期だと感謝しています。

2 津高での思い出

津高在籍10年(担任9、生徒会1)には、数え切れない想い出がある。
保健体育の授業、ホーム担任としての修学旅行、部活動と、湧水のように次から次へと想い出される。
生徒や先生達と出会った結果、得られた貴重な体験が生命の源になっているのかもしれない。津高ありがとう。

3 近況

傘寿を超え、「五臓、五体、五感」満足な所なし。でも元気ですと云えるのが近況です。

(別紙)津高での想い出

私が津高に赴任したのは、昭和40年代前半で、運動場側には木造校舎が残っていた。津高が、勤務校3校目で、30歳と働き盛りであった。自主・自律を重視する校風が新鮮で、経験すること全てを吸収できた。勤務した10年間は、教師として成長するのに必要な領域を学ぶ絶好の機会であった。今回、当時の体験を想い出したい。

(1)硬式野球部(昭42~52)

部活動では、教科で体験できない感動を生徒と共に味わうことができる魅力がある。毎日放課後、共通の目標に向かって努力した結果が実った時の感動である。部活は3年間の交流があるため、気心が知れ、お互いの一挙手一投足が読みとれるようになる。特に、夏の大会は忘れられぬ想い出ばかりで、スコアブックがあれば、1球ごとの試合展開を目に浮かべることができる。野球好きの生徒と出会い、喜怒哀楽を共にできたことは、何にも代えがたい財産になっている。

(2)大学紛争が高校へ(昭43~44)

体制に反発した大学紛争が高校に波及し、学校行事の改革、云い換えれば、入学式・卒業式・運動会等を生徒主体で開催したいと要望した。この年、生徒会担当だったので、その調整に相当汗をかかされたのを覚えている。この運動も、過激な思想であったため、人々から批判され、自然消滅してしまった。確かこの年、東京大学の入学試験が実施されなかった。

(3)警報発令時の下校(昭46頃)

津高は県下各地から通学しており、区域が広かった。そのため、公共交通が不通になり、帰宅できないこともあるため、警報が発令されたら即刻下校であった。或る時、大雨警報が発令された。津高生は下校した。本校近くの幼稚園や小学校では、園児や児童が活動している姿をみて、近隣住民の話題になった。この珍現象を契機に、現在の暴風雨・暴風の警報発令が下校の基準になった。

(4)混合名簿から男女別名簿へ(昭48)

津高ではアイウエオ順・ミックス名簿が伝統であった。この名簿も、男女別授業が実施される教科では使えない。そのため、毎年年度初めの時期に、時間を要して再編集を行っていた。この男女混合名簿に愛着のある先生の抵抗があったが、男女別名簿へと変更された。県下では、この年から学校群制度が導入され、津高も大きく変った。