富田さん写真

東京に出生も3歳の時に父の津の実家に疎開。津で空襲を経験する。戦後、附小、附中、津高を経て、静岡大学工学部へと進学し、化学実験に明け暮れる。大学を卒業して宇部興産に入社しナイロンの研究開発に従事。その後、宇部興産を退社し、縁あって小豆島への移住を決意。風光明媚な小豆島を開発生産拠点とする食品メーカー「タケサン」で、醤油や調理食品の開発営業から経営にも携わり今に至っている。今春金婚式を迎え、自分たちの人生も楽しみたいと思う今日この頃です。

富田さんの思い出の「恩師」
1.津高での担任教師
1年:小川三津先生(音楽)
2年&3年:小林尚志先生(理科・化学)

2.あなたにとって思い出深い恩師
◯小林尚志先生(理科・化学)
大げさに言えば将来の方向性を示唆して戴いた。
理科系が好きになり特に四日市の工業地帯の工場群を見て石油化学にあこがれを持った。静岡大学工学部工業化学を卒業後、宇部興産でナイロンの製造開発研究に従事。
ただ、今は縁あって昭和51年に小豆島に来て以来、醤油や調理食品等の発酵食品の製造販売に従事していますが。

◯住井靖先生(英語)
英語の授業が分からず放課後職員室によく呼ばれ個人レッスンを受けました。それで授業に何とかついていけたことに感謝してます。

Aさん

小林尚志先生には進路指導もしっかりして頂いた、そんな感じだね。

Bさん

学校も生徒も真摯に向き合ってる感じ。

Aさん

ちなみに富田さんが一年生の時の担任だった小川三津先生は、「青山誠さんのこころ旅」の方にも登場されてる。

Bさん

合唱部の顧問としてね、お写真も掲載されてますよ。

Aさん

:僕らの頃の進路指導とかは、それはそれで津高らしさだとも思うけど、「大学進学とか進路とかは自分自身で考えるもの」という空気が強かったかな。先生にも生徒にも普通にそう理解されてたような気がする。

Bさん

そうだね。情報もそれなりにあったしね。「傾向と対策」とかも(笑)。

Aさん

昭和30年代て、「石油化学」は日本の高度成長を実現するうえで必要不可欠な研究分野だった。富田さんの進路を伺ってると、やっぱりその頃の時代性を思うんだよね。

Bさん

コンビナートが全国に展開されていったわよね。

Aさん

そう、池田内閣の「所得倍増計画」(昭和35年)に沿ってね。策定されたのは、まさに富田さんが津高を卒業された年なんだね。日本のさらなる経済発展には四大工業地帯に隣接した形で石油化学コンビナートの建設が不可欠だとされた時代。

Bさん

日本の成長を牽引するという意味では、今で言えばITとか、ロボットとか、AIとか、生命科学とか、そんな位置づけだったのかな。

Aさん

そうかもしれないね。事実、その後の日本経済は目覚ましく成長したし、豊かになった。

Bさん

高速道路や新幹線とか、インフラ面も一気に整備されていった時代よね。

Aさん

東京オリンピックといったエポックメイキングなイベントに向けてね。

(日本の給与所得の推移 ネットより)
Bさん

富田さんが卒業されてから十年ほど後、昭和40年代後半、私たちが高校生の頃には経済成長の恩恵を受けていたてことね。

Aさん

そう、富田さんやそれ以前の大先輩方の頑張りのお蔭様てとこだな。

Bさん

富田さんは静岡大学に進学されたけど、三重大学とかではなかったんだね。

Aさん

そもそも三重大学に工学部が設立されたのは昭和44年(1969年)だから、富田さんの卒業から十年も後のことだった。

Bさん

今は、小豆島でお醤油などの発酵食品の事業にたずさわっているとか。

Aさん

「発酵」て言わばバイオでしょ。バイオと化学て、何となくつながっているような気もするよね。

Bさん

小豆島っていいところよね、行ってみたーい!

Aさん

壮年期は日本経済を牽引して頂き、熟年期の今は私のお腹を満たしてくれているわけだ。

Bさん

何言ってるんだか。

(枯節を吟味する富田さん)
(小豆島の夕焼け 「小豆島ナビフォトダウンロード」より )
(小豆島 天使の散歩道 「小豆島ナビフォトダウンロード」より)
(小豆島 寒霞渓 「小豆島ナビフォトダウンロード」より)
(小豆島 肥土山農村歌舞伎 「小豆島ナビフォトダウンロード」より)
(小豆島 二十四の瞳映画村「小豆島ナビフォトダウンロード」より )

小豆島の写真

https://shodoshima.or.jp/photo/?p=1

~~旅は続く~~ その2