青山さんの思い出の「クラブ活動」
合唱部 そして校歌・新応援歌の誕生
現在の津高の校歌が制定されたのは私が在学中で、クラスでも、合唱部でも、一生懸命に練習したのを思い出す。新しい応援歌も作ろうとの機運が学校で高まり、作詞は誰だったか失念したが、作曲は小中高と同窓の親友で合唱部でも一緒に歌った喜田治男君だった。
そうか、今の校歌や応援歌が封切られるその瞬間に立ち会っておられるんやね。
昭和26年というのは、現在の津高の礎えとなる新体制が確立された、そんな年だったんやね。
校章とか校旗とかの制定もね。それに天皇陛下もその年に来校されている。
青山さんに尋ねると、何やら校内が騒がしいと思ったら、ビラくばり騒動とかもあったんだそうな。すぐにおさまったらしいけど。
なんにせよ熱い時代。
津高の年表によると、今の校歌は昭和27年12月の終業式にテープレコーダーで生徒たちに初披露、翌28年に中央公民館で校歌音楽発表会が催された、とある。
応援歌の方は、それに先立って、昭和27年10月に新町小学校の講堂で発表されたとあるわね。まだ体育館は出来て無かったてことだね。
それにしても、津高に限らないけど、昔の先輩方は教養といい、行動力といい、凄いよね。自分たちで応援歌やらを創作してしまうんだからね。まさに自主自律を貫くだけの識見を持たれてる。
しかも、今でもずーっと歌い継がれるだけの名曲だもんね、あの歌。
どうやら作詞は川口常孝先生のようだね、それらしい記録が100年記念誌にある。
でも、作曲した現役生徒の喜田さんの名前はあまり取り上げられてないね。青山さんに言われて思い出したけど、九州同窓会で一度だけ喜田さん(鹿児島在住)にお目にかかったことがあるのよ。その時、ご本人から直々に応援歌の話を伺ったことがあった。
青山さんの親友でもあるし、喜田さんに連絡とってみようよ。応援歌が誕生するまでの秘話とか是非伺ってみたいな。
☎~~お電話~~☎
ショックぅ~。喜田さんにお電話を差し上げんだけど、本当についこの間、今年の7月にお亡くなりになったんだって(涙)
そうかぁ・・・・それは残念・・・・虫が知らせるというのかな・・・・ご冥福を祈るばかりだね。
折角だから、青山さんの合唱部の頃の思い出や写真を提供して頂きましょうよ。
そらいいね。実はこう見えて僕も合唱部だったんだよね。
近頃はもっぱら演歌て聞いてるけど。
そうそう、校歌にもこぶし回したりして、、、て何でやねん(笑)。
これは?
昭和25年の音楽祭だって。当時は毎年一流のプロの演奏家が来演してくれてたんだって。中央のドレスの女性はピアニストの室井摩耶子さん、その左隣りの男性は森正さん、右隣りは顧問の小川三津先生。東校舎というのは、柳山の分校のことだよね。
へぇ~、森正さんて指揮者でN響とかと活躍されてたあの森正さんだよね。あと、室井摩耶子さんと言えば・・・・(検索中)・・・・、えっ!?、な、な、なんとご存命なんだね。いや、ご存命どころか、100歳の現役ピアニストとして今年もステージに立たれてる、凄い!!
室井摩耶子さんの情報
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210408/amp/k10012961851000.html
https://video.mainichi.jp/detail/video/6261103875001
こっちは?
翌昭和26年の音楽祭だね。真ん中の女性が平田藜子さん。その隣りが中田喜直さんだそうです。
え、中田喜直さん!、「雪の降る街を」とか「小さい秋みつけた」とかを作曲した?
「めだかの学校」や「夏の日の思い出」とかね。
実は、中田喜直さんは合唱曲も作ってて、その中に「昇天」というのがあるのよ。いや、「笑点」とちゃうからね、先に言っとくけど。
相方いらずの一人ボケツッコミ。
中田さんの童謡とは少し違ってて、「不協和音」っぽいハーモニーが一杯入ってるんだ。まぁ、何とかなるだろうて勢いでその曲をコンクールの自由曲に取り上げたわけよ。皆で悪戦苦闘したものの、結局は不完全燃焼のままに「昇天」してしまったという、私的にはほろ苦い思い出。
また大きな体と大きな声で足引っ張ったんやろね。
いや、最後まで自信が持ち切れなかったんで、思い切って歌えなかったんやね。
あなただけでも口パクにしとけばよかったのに。
まぁな、そもそもがビジュアル担当やったからな(笑)
写真に“JOCK”てあるね。
NHKの津放送局が開局した年に、津高合唱部の演奏も放送してもらったみたいね。
へぇ~、自分たちの声が放送されるからか、みんな凛としてる。
青山さんが最後列の右から五人目、そして喜田さんが右から七人目。二列目の真ん中の女性が小川三津先生ですって。
おっ、蘇鉄だ。
そうね、2年生の青山さんのクラスの男性陣だって。昭和27年だから、後ろの校舎は戦災から新築されて間もない頃ね。
みんないい笑顔だ。「青い山脈」だね(笑)。下駄をはいている人もいるね。
上のポートレイトから45年後のお二人なんやね、いい感じ。
お互いのポートレイトを交換するて、何というか、恋人同士みたいだなぁ。
そうね、今ならスマホでパチリよね。
今は便利というか、何にしてもお手軽。それはそれで豊かには違いないんだけど、青山さんの頃の写真には何というのかな、「一期一会」に向き合う真摯な気持ちがあるよね。
「さらば、いつの日にかまた会おう!」て感じ。
映画館で言うと、「シネコン」と「単館の映画館」との違いにも似てるかな。
喜田さんは津高の頃には合唱部と同時に放送部でも活躍されてたそうで、志望を貫かれてTBSに入社したんだそう。そして、TBS系列の鹿児島のMBC南日本放送の立ち上げに尽力されて、その縁でその後もずーっと鹿児島に根を張ったそう。自らニュースキャスターもやってて鹿児島ではちょっと知られた存在なんだって。
そうなんや。
青山さんの方はもっぱら東京で、喜田さんが出張で上京される折りなどには、時に同級生が集まって会食を楽しんだそうよ。
青山さんの「こころ旅」もそろそろ「とうちゃこ」だね。合唱部で共に歌った喜田治男さん(昭和28年卒)への弔意、そして「応援歌」作曲への敬意もこめて、青山さんの「こころ旅」も「津高応援歌」でしめさせてもらいましょう。
青山さ~ん!、何とも拙い添乗員でしたが、「津高こころ旅」は如何でしたでしょうか。色々と懐かしく思い出し、楽しんでいただけたでしょうか。津の歴史、津高の歴史など、かえって添乗員の私たちの方が楽しませて頂きました。ありがとうございました。最後は少ししんみりしてしまいましたが、まさに青山さんたち先輩たちの熱意と創意によって誕生した「津高応援歌」で青山さんの「こころ旅」を締めくくらせて頂きます。
それでは皆さん、川口常孝先生作詞、そして喜田治男さん(昭和28年卒)が高校現役時代に作曲した「津高応援歌」、どうぞお聴きください!
♬ 津高応援歌
(了)