青山さんの思い出の「場所」
「贄崎海岸」
友人とたびたび泳ぎに行った。
♪贄崎に来て沖を見る、やね。
「かのしまやま」までは泳がなかったのかな?(笑)
青山さんの頃には津の人は「贄崎海岸」でよく泳いでたんやね。今では海水浴場や潮干狩り、そして「たて干し」と言えば「御殿場海岸」というのが定番だけどね。
贄崎海岸も戦前とかは砂浜が広くて、全校生徒で体操できたほどだったんだって。
昔うちの叔父さんに聞いたことがあるけど、戦前には贄崎海岸での水泳訓練が授業だったんだよね。もちろん津中の時代。
観海流よね。
そう、贄崎海岸から確か香良洲海岸まで泳いだと聞いたような。結構な距離だよね。
階級があって、昇級すると帽子の色や線が変わっていったとか。最上級は贄崎海岸と香良洲海岸の往復だったって聞いたような。
そら凄いな。その頃は「白砂清松」だったんだよね、津の海岸は。綺麗だったろうな。今では浜は狭くなったし、松は伊勢湾台風などですっかりやられてしまってるけど。
折角だから校歌の話に戻るけど、「かのしまやま」て知多半島のことでしょ、凄いよね、「泳ぎかえせし」て。大先輩の中に調子にのって勢いで泳いだ人がいるのかしら。
その点だけど、津高100周年の記念誌に作詞家の山口誓子さんが直々に寄稿されている。
昔のことは「津高創立100周年記念誌“あゝ母校”」(1980年発刊)に聞け、ね。
凄いよね、この記念誌。超大作。
津高同窓生、津高の教師の方々、それこそ総動員の集大成だよね。
それによるとね、山口誓子さんが津を取材する中で観海流の初代家元の山田省助氏が知多半島に泳いで帰ってきたという逸話を耳にされ、いたく感銘を受けたそうな。津高生もその鍛錬を見習うべしといった思いで校歌に盛り込まれたんだとか。
お調子もんの大冒険ではなかったのね、少しだけガッカリ(笑)。
向こうでお味噌を買って頭にのせて泳ぎ帰った、みたいな逸話もあったような・・・・・。
あなたもどうよ、そのカラダだからよく浮くでしょうし。
いえ、大丈夫。海を渡るのはエアポートラインがいいです。お味噌は近所のスーパーで買いますし(笑)。
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