~旅は続く~
青山さんの思い出の「場所」
■津新町駅前にあった「津東宝映画劇場」
原節子の「青い山脈」を友人と一緒に観に行った。原節子の美しさ、杉葉子のすがすがしさに圧倒された思い出が忘れられない。■津城近くの「中日映画劇場」
イングリット・バ-グマンの「汚名」を友人と一緒に観に行った。バーグマンの美しさと、映画の面白さが大きく印象に残っている。この映画館は洋画専用映画館だった。
映画は僕も大好きだけど・・・・いやぁ、困ったな、さすがに昭和20年代の事情は知らないなぁ。
話としてはね、聞いたこともあるけど・・・・そうだ、昭和の映画とくれば、田川先生(昭32年卒)でしょう、教えてもらいましょうよ。
なんやぁ、呼んだか?
昭和の津の映画館の変遷、歴史とかについて伺いたいのですが・・・・津新町の駅前にあった「津東宝映画劇場」と、お城近くにあった「中日映画劇場」てご存じですか?
御存知もなにも、「中日映画劇場」とかはワシもよお通ったもんや。「中日会館」にあった。あそこは洋画が多かったな。
その後、ジャスコ、さらに今では百五銀行の本店になっているところですよね。
ちなみに津の中心部のランドマークだった三重会館が建て替えられたのは2000年だったね。
そうやね。郷土の偉人、東畑謙三さんの事務所が設計した前の三重会館も良かったけどね。
今となっては懐かしいね。
懐かしいね、メリーさん。
最初の頃はどうして津にフェニックスなん?とも思ったけど、どれもこれも大木になって、今では堂々たる並木よね。
~ 旅は続く ~
私らは昭和40年代ぐらいからですけど、津にも映画館てたくさんありましたよね。
そやな。以前、書いた論文で使った表やけど、津の映画館の変遷をまとめたのがこの図や。
なるほど、これは分かりやすい。栄枯盛衰、目まぐるしいですね。色々と思い出もつながります。
ワシが津高卒業した昭和32年頃が全盛で、単館系の映画館が津の中心部に9軒もあった。
9軒も!!
昭和30年代の娯楽というと映画ぐらいやったでな、洋画、邦画、映画館によって特徴はあるけど、どこも盛況やったなぁ。立ちっぱなしでも、それでも感激して観てたもんや。
僕らの世代はもっぱら「パール劇場」やったよな。夏休みとか、エアコンのある前の県立図書館(大谷町)に涼みがてら勉強に出かけたつもりが、ふと気づいたらパール劇場にいた。
夢遊病者みたいな人やな。
あぁ、懐かしいなぁ、パール劇場。デートのような、デートでないような、ほろ苦い思い出。
たぶん勝手な思い込みでしょうよ。
会報のアンケートでも、「思い出の場所」として「津パール劇場」との声が、昭和47年卒の青木源太郎さんからも届いてる。
私らの頃に洋画というとここだったね。
劇場の跡地はオフィスビルになってるね。何となくの雰囲気は残ってるような、残ってないような。
青山さんが仰ってる津新町駅前の「津東宝映画劇場」というのはな、その後に東映になるんやけど、それまでしばらくの間は東宝やったんや。
そう、僕らは東映の頃しか知りませんね。40年代はヤクザ映画で盛況でした。高倉健さんや鶴田浩二さん。映画観終えて出てくるお客さんが、皆が皆、肩で風切って歩いてたみたいな話、よくありました(笑)。平成の初め頃には子供を連れて漫画映画を観に行った記憶もあります。
今はマンションに変わってるね。
津高の時、ワシがよお行ったのは「第一劇場」やな。夜は安くなるんや、今で言う「レイトショー」やな。津の観音さんの境内の一角にあったんや。
へぇ、観音さんの周辺にはホント多かったんですね。
そうや、思い出したけど、「第一劇場」はな、津高の演劇部の定期公演の会場としても使ってたんやで。顧問はあだ名が「ジャッジ」の米本宏先生(昭和4年卒)やったな。知っとるやろ?
はい、10年前の津高創立130周年のイベント「母校の教壇」ではご登壇も頂きました。
その後、第一劇場は大門仲見世の方に移転して、さらにその劇場は津東宝になっていく。
あぁ、そこからは分かります。今もある喫茶店「サンモリッツ」の隣りですよね。いっときは「大門シネマ」として再起してました。
そや、サンモリッツには今でもちょくちょく行くで。「曙座」の支配人だった久保さんの奥さんや娘さんがやっておられる。
へぇ、そうなんですか。
あと、「大門劇場」もよお行ったもんや。三重県下初のデパートやった「大門百貨店」の確か四階にあったはずや。
:あぁ、その後「松菱百貨店」になって、さらにその後はパチンコ屋さんとかになった・・・・
その頃からかな、「良い子」はあんまり近づけない雰囲気になった。
あなた、「良い子」だったの?(笑)
青山さんに伺うと、ミッシェル・モルガン主演の「田園交響楽」やジャン・マレ-主演の「美女と野獣」を「大門劇場」で観たと仰ってます。
ほぉ~、そら凄い。あとなぁ、「松菱」と言えば、岩田橋のたもとの今の「松菱百貨店」の場所には「新世界」という映画館もあったんやで。
青山さんはそこではドイツのリーフェンシュタールが撮った「オリンピア」を観たそうです。
おぉ、ヒトラーが開催したベルリンオリンピックの記録映画やな。
ええ、マラソンの孫選手(日本統治時代の朝鮮の選手)や水泳の前畑秀子選手の優勝シーンでは、「新世界」の観客席から思わず拍手が沸いたそうですよ。
「前畑ガンバレ」よね。でも、青山さん、映画が本当にお好きなんやね。それと記憶力も凄い。
そしてやっぱり「曙座」やな。元は観音さんの境内にあったわけやけど、空襲で焼失して、戦後に少し横に移ったところへ大きく再建された。
今の大門駐車場のとこですね。立派な映画館に見えたよね、当時。僕らが小学校の時、市川崑の「東京オリンピック」を学校から「曙座」にまで皆で観に行きました。
そう、東京オリンピックのあたりにテレビが一遍に普及してな、それを契機に段々と映画もすたれていったし、映画館も減っていったな。
今ではイオン系のシネコンが二つ。「イオンシネマ津」と「イオンシネマ津南」やもんね。
そう、平成12年(2000年)に津にシネコンが出来たんは決定的やったな。市内のスクリーンの数から言うと、そんなに減っているわけでもないんやけどな。シネコンは映画を楽しむ施設としてはもちろん素晴らしい。でもなぁ、何というのか、文化的な匂いや熱気のようなものは薄れてしまったような気がするんさな。
ところで、先生は「青い山脈」はいつ頃ご覧になって、どんな風に観たんですか?
あれは昭和の24~25年やろ。その頃はワシは美杉で小学生やったで、封切り当時には観れてないな。早稲田に進学してから東京で観たように思うけど、やっぱり解放感は感じたわな。
公開が昭和24年、終戦後わずか4年ですよね。それであの映画が熱烈に受け入れられたわけですが、みんなどんな気分だったんでしょうか。
やっぱりな、長引く戦争に気持ちは鬱積しとったし、敗戦とは言え「戦争が終わった!!」という解放感はあったわな。
そうでしょうね。
「青い山脈」を観て戦時中の監視や抑圧から解き放たれる、そういう気持ちに弾みがついたとは思うな。恋愛とかにしてもな。
その当時の生々しいお気持ち、よく分かりました。
ワシら昭和32年卒は今でも毎年同窓会をやっとるんやけどな、パーティのお開きには必ず「校歌」+「青い山脈」+「高校三年生」の「三点セット」を皆で合唱して〆るんやで。
それは凄い、楽しそう。
おまけにな、皆でフォークダンスも踊るんやで。オクラホマミキサー。近頃は足がもつれやんように気いつけなアカンけどな(笑)。
出た、男女融和のためのキラーコンテンツ(笑)。
昨日の硬派は今日の軟派。あのバンカラは何処へやら(笑)
やっぱり「青い山脈」の影響力は絶大だった、ということやね。
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