青山さんプロフィール
- 橋北中学、津高校、神戸大学とすべて入学当初1年~1年半は仮校舎で学ぶという経験をする。
- 大学卒業後は横浜ゴム(株)に入社し、全期間を通じて経理畑、経営管理業務に従事する。
- 中学、高校、大学と合唱部に所属し、社会人になってから今に至るまでも音楽をこよなく愛してきた。ここ数年は肉体の衰えとコロナ禍で外出もままならない状況ではあるが、それでもクラシック音楽やオペラやかつての名画のビデオを自宅で見て過ごす毎日である。
青山さんの思い出の「場所」
その① 修成小学校校舎
当時津高の生徒は、新町の本校舎が空襲で焼けて教室が足りず、住所によって西高、東高に分かれていて、西高は旧久居農林の校舎に、東高は柳山の旧津高等女学校の校舎で授業をうけていた。我々昭和25年入学組は、西高組は久居の校舎も教室が足りず、1年生は修成小学校の校舎に間借りしていた。東高組は上級生もいたが、西高組は1年のみであった。私は西高になり、1年間は上級生のいない、4~5組の楽しい自由なのびのびとした楽しい学校生活を送ることができた。このことは、高校生活の大きな思い出である。
青山さんのこころ旅へ
津への空襲は終戦の年、昭和20年に入ってから数回度重なってあったと聞いてるね。
そう、その中でも大きいのは3回で、6月26日、7月24日、そして焼夷弾で中心部が壊滅的になった7月28日ね。
戦災を受けたエリアが分かる地図を見ると、ホント、狙いすました中心部は壊滅的。
観音さんの大仏だけがポツンとそのままいる写真、象徴的よね。
昔の大門界隈の街並みとかとても風情もあるし、お祭りの山車とかもとても華やかで、今さらだけど焼失は残念だね。
津高は中心部からは少し離れているのに、被災して焼失してるのよ。悔しい。
青山さんの入学が昭和25年(1950年)、その頃はまだ校舎は復興できてなかったてことだね。
校舎や学校体制が整いだすのは昭和26年。だからそれまでの間は青山さんの学年前後では思い出にあるような教室のやり繰りが強いられたんだね。まさに新制津高までの過渡期。
戦災地図見ると、なるほど、新町小学校、津高等女学校(旧実業高校、現みえ夢学園)、そして修成小学校は、本当にぎりぎり焼失は免れてるね。
先生方に失礼なのかもしれないけど、「スリッパ」「カッパ」とかってネーミングがあまりに上手すぎ、正直、写真を見ながら笑ってしまった(笑)。
「スリッパ」(村瀬先生/津高S23~S47)も「カッパ」(中谷先生/津高S25~S49)も、私らの頃にもみえたわよね。
さすがに「スリッパ」「カッパ」とは呼んでなかったよね。というか、思えば私らの親の世代だったわけだし、年齢的にも離れてたしね。
残念ながらお二人ともお亡くなりになってますね。中谷先生は確か二年ほど前でした。
私らの時代にも「あだ名」が付いた先生は中にはいたけれど、昭和20年代、30年代の頃までは多くの先生に「あだ名」が付けられたようだね。
先輩方からよく耳にするのは、草野先生の「ペロ」とか、米本先生の「ジャッジ」とかね。
漱石の「坊ちゃん」の世界(笑)。
今と比べて昔は赴任期間が長かったからという説もあるし、やっぱり年齢的に生徒たちと近かったこともあるよね、きっと。
生徒には「あだ名」が代々伝承されていくので、中には理由がハッキリと分からない「あだ名」もあったらしいね(笑)。
ところで、サンフランシスコ平和条約の調印が昭和26年9月、発効が翌昭和27年の4月。つまり、青山さんが二年生の頃には厳密に言えば戦争はまだ終結していなかったわけだね。
なるほど。
津高の歴史を紐解くと、昭和25年の年末に開催された「全校討論会」のテーマは「全面講和か、単独講和か」といったもので激論を交わした、とある。(津高創立100年記念誌より)
ひぇ~、凄いテーマ。
時代と当時の津高校内の熱気が伝わってくるよね。
でも、苦労はあったでしょうけど、今となっては「分校」の思い出自体は青山さんとしても満更でもなかったみたいよね。上級生がいないところがポイント?(笑)。
僕ら(昭50卒)の頃には、上下関係はそれほど厳しいものでもなかったよね。津高だからかもしれないけど。
戦後間もないし、青山さんの頃の上下関係は今よりもピシーッとしてたんでしょうね。
~~旅は続く~~その2へ